後輩育成と自分の勉強の為、毎月第1金曜日に事例を通したクリニカルリーズニングの勉強会をすることに決定した。
その第2回目が今週の金曜日にある。事例を後輩PTに出してもらうので、その打ち合わせを業務終了後に行っていた。
事例は90歳代中盤の女性。脳に病変を抱えている方である。全身の筋力が低下し、両手は失調症状が見られた。つまみ動作が出来なかった。
初期評価時、事例のニードは1人でなんでも出来るようになりたい。両手が使えるようになりたい。であり、ほぼ手の機能に固執されていた。
PTは生活で困っていることや、手を使えるようになったら何がしたいかを聞いても応えは手の機能のことだったと話していた。そして「出来ない」という言葉をよく話していた。
PTは初期評価の後、手の機能は改善すると考え、手の機能訓練を行った。その結果、事例は手を徐々に使えるようになっていった。
その後、PTは事例から「近所に住む娘が毎日横で寝て、トイレの介助をしていること。夜間帯のトイレの回数が多いこと。下衣の上げ下げを出来るようになったらトイレが1人で出来るようになると考えていること。」などの語りを引き出していった。
そして、トイレ動作に必要な立位での上肢の操作などを練習し、現在では事例1人でトイレをしており、娘さんは泊まりにこなくても良くなっている。
事例は現在出来るようになったことをたくさん話すようになっている。
ただ、やりたいことについて尋ねると「今まで、やりたいことを全てやりつくしたからもうやりたいことはない。」と話されているそうだ。PTは今後の介入に悩んでいた。
簡単すぎるが、ざっとこんな感じだ。
まず、僕がPTに聞いたのが「なぜ事例は手に固執したのだろうか?」ということだった。もちろん急性期、回復期と機能面に焦点を当てられ続けていたのであれば致し方ないかと思うが、それ以外に理由を探ってみる必要を感じた。全身ではなく手に固執する理由を。
そこで、事例の生活歴・作業歴を聞いていった。女手ひとつで子ども二人と義母を養ってきたことや旅行・琉舞・老人会の会長をやっていたことなど様々なことが挙がってきた。
特に琉舞は老人会でも長年やっていたようだ。
ここまで聞いたところで、最初に手に対するアプローチをした理由について紐解いてみよう!と話し、PTと共に考えていった。
すると生活歴から、事例は病気になるまで何でも自分ひとりで行ってきた。誰にも頼らずに。家庭では母と同時に夫の役割も持っていたと思う(少し頑固さも持っている)。そんな事例は過去の自分と対比することによって、介助を受けている自分、ひとりで出来なくなった自分を「自分のようではない。」と感じていたのかもしれない。そして、事例は誰の介助も受けないですむ為には手を治すしかないと信じていたのだと考える。だから、身体ではなく、手にこだわったのだろう。
まず、手の機能にとらわれている状態から脱却する為に、手に対する想いを満たす必要があった。そうすることで、手の機能から生活全般に視点が向き始めるのではないかと考えた。だから、PTは手の機能訓練を選択した。
予想通り、手の機能が改善していく中で、事例も生活全般(作業)に目が向けられるようになった。夜間帯のトイレに関して。
ひとりで何でも出来ることに自分らしさを感じると予測される事例にとって、夜中ずっと付き添われていることは辛かっただろうし、娘さんにも気を遣ったことだろう。
この後もPTはしっかり事例と向き合い、トイレ動作の獲得に至った。現在では、ほとんど全ての活動をひとりで行っている。そして、事例からは「出来るようになったこと」というポジティブな語りが聴かれている。
このように、初期評価から現在に至るまでに大きく2回、クリニカルリーズニングを行っていた。PTはこんな風に考えたことはないと話していた。きっと無意識に知り得た情報を整理し、解釈して介入を行っていた。それはきっと勘や知識からくるものだろう。このPTは一生懸命だし、技術もあるので今回上手くいったのだろう。しかし、他の方ではどうだろうか?上手くいくかもしれないし、そうでないかもしれない。不確定なのだ。
だから僕は、いつもなんとなく、無意識にやっていることを振り返って目に見える形にすることで、ひとを包括的に捉える視点がつき、より適切な介入が出来る為の情報を聴くことが出来るようになると思う。また、後輩にそうなって欲しいと思う。
僕の狙い通りに後輩PTは介入を振り返り、しっかり考えられるようになってきている。やはりチャレンジしてよかった。
書きすぎてよくわからなくなったが、機能訓練やトイレ動作訓練は手段であり、目的はもっと違ったところにあるということを後輩に伝えたい。
この先の事例へのアプローチを考えるのも楽しそうだ。
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